昨今、「なぜ生きるのか」「生きるとは何か」ということが多く語られているように感じられます。しかしそもそも生きることに、目的や理由など存在するのでしょうか。近代以降、「なぜ生きるのか(=Why we live)」ということが重要視され、「どのように生きるのか(=How we live)」ということはあまり重要視されてこなかったのではないでしょうか。一体何時から人間の社会は、それほど多くの「なぜ」を問わなければならない社会になってしまったのでしょうか。そもそも生きるということの外に、生きることの根拠があるのでしょうか。もしもそうであるならば、人間は一生かかっても生きる理由や生の本質を知りえないということになってしまいます。そのような考え方は、いわば人間の生きている世界とは別の特別な場所に神様が存在していて、人間の行いを見守っているという考え方のように聞こえます。生きる意味は人間にはとても知りえないことである、と。そして、生きる意味探しが始まるのです。しかし、人間は生きている間に真理に到達することは出来ないのでしょうか。生きている間に生きる意味を知ることは出来ないのでしょうか。人間にはそれが出来る、と私は思います。なぜなら、私たちはこの世界にこの身体を与えられているからです。それだけで充分に生きることの根拠になる、と私は思います。神様は、一人一人の心の中にいるのです。つまり生きることの根拠は、生きることそのものなのです。私たちには、それ以外には説明のしようがないのです。もしも生きる前に、生きる意味を全て知り尽くしてしまったならば、生きる意味はあるのでしょうか。実は、「なぜ生きるのか」と問う人は実際に生きる意味を知りたいわけではありません。「なぜ生きるのか」という問いは、いわば現在の生の感覚に対する抵抗です。もう一方でその問いは、「モラトリアム」(猶予期間)の要求の表れでもあると思います。全ての人が、大人になりたいと思うわけではありません。まだこのままでいたい、このままずっと変わらずにいたいという気持ちは必ずどこかに存在すると思います。一方では早く大人になりたい、しっかりしたいと思っていても、他方ではまだ子供のままでいたいと思うものです。その両極の間にあって自分なりに見つけ出す言葉が、「なぜ生きるのか」(生きなければならないのか)という問いなのだと思います。思春期と呼ばれる十代の頃は特にこのような問いが頻繁に現れますが、それはある意味で当然のことです。しかし、「なぜ生きるのか」という問いに縛られていては人間は何も出来なくなってしまいます。「なぜ生きるのか」という問いと「どのように生きるのか」という問いは、問いの方向性が根本的に異なるからです。前者の問いはある意味で、問題を丸投げしてしまう側面を持ち合わせています。それに対して後者の問いは、人間の言語や物語に焦点を当てているわけではなく、あくまでも人間を生という現実の方向へと向かわせる響きを持っています。私は、ポスト宗教世界の中で人間が生きのびるためには、人間の現実につき続ける倫理というものがとても重要になると思います。生きのびることは正義である、という価値観を多くの人に持ってほしいと私は思います。私たちは、過度の「なぜ」に振り回されてはなりません。私たちは、「なぜ学校に行かなければならないのか」「なぜ働かなければならないのか」という問いを、「どのように」「どうやって」「生きのびるために」という方向へと向けていく必要があります。どうしても逃げ出したいと思ったら、後ろ向きに逃げるのではなく、前へ逃げるのです。そうすることによって生まれるものが、人間の生きる希望に他ならないのですから。